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兼家らに翻弄された「よそ人の関白」藤原頼忠

紫式部と藤原道長をめぐる人々⑧

 ところが、その翌年となる972(天暦3)年に伊尹が病をえて摂政太政大臣を辞任すると、伊尹の弟である権中納言・藤原兼通(かねみち)と大納言・藤原兼家との間で激しい後継争いが勃発する。二人は円融(えんゆう)天皇の御前で、自分が次の摂政となるべきと主張し合ったという(『済時記』)。

 

 頼忠は兼通を支持。結果的に、政権の実権は兼通が握ることとなった。同年11月に伊尹が没すると、頼忠は藤原一族の統率者たる藤氏長者(とうしのちょうじゃ)を受け継いだが、974(天延2)年に、その座をあっさり兼通に譲り渡している。

 

 それからまもなくして病に倒れた兼通は、977(貞元2)年に頼忠を左大臣に任命した。これは、弟の兼家の昇進を阻む、恣意的な人事だったといわれている。

 

 さらに兼通は、死の直前に関白の座を頼忠に譲った。一部の史料には、これも兼家に関白を明け渡すまいとする、強引な移譲だったとする記述もあるが、関白の座に筆頭左大臣の頼忠が就くのは、本来のすじ道であったと考えられる。

 

 翌978(天元元)年には太政大臣に就任。同年に娘の遵子(じゅんし/のぶこ)を円融天皇に入内させている。遵子は天皇の寵愛を受けたものの子ができず、一方、兼家が入内させた詮子(せんし/あきこ)は懐仁(やすひと)親王を生んだ。このことで、頼忠の足元が次第に揺らいでいくことになる。

 

 円融天皇が花山天皇に譲位して以降も、頼忠は関白を務めた。ところが、花山天皇の側近である藤原義懐が朝廷の慣例に従わず、関白を差し置いて政治の実権を掌握すると、徐々に存在感を失っていった。関白とはいえ、天皇と外戚関係になかったことから、「よそ人の関白」などと揶揄されるようになっていたらしい(『大鏡』)。

 

 懐仁親王が一条天皇として即位すると、頼忠は関白を辞任。太政大臣の兼家が念願の摂政に就くこととなった(『公卿補任』)。病気でもないのに関白を辞任するのは、頼忠が初めての例だったという。

 

 頼忠は関白を辞めてから3年後となる989(永祚元)年626日に病没。三条に住んでいたことから、「三条大臣」「三条殿」とよばれた。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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